稲荷信仰とは、その歴史と稲荷と狐の由来

稲荷神社の画像

稲荷とはもともと「いねなり」が転じた言葉とも考えられ、五穀や食料そのものを司る、すなわち「稲を荷なう」農耕の神として信仰されていました。

全国に3万社以上あるという稲荷神社ですが、その総本社は京都の伏見稲荷大社。
和銅4年に奉公伊呂具によって創始されたとされています。

伏見稲荷大社について「日本書紀」では下記のように書かれています。


稲荷大神は欽明天皇が即位(539年または531年)する前のまだ幼少のある日「秦(はた)の大津父(おおつち)という者を登用すれば、大人になった時にかならずや、天下をうまく治めることができる」と言う夢を見て、早速方々へ使者を遣わして探し求めたことにより、和銅4年(711年)二月初午の日に秦(はたの)伊呂巨(具)(いろこ(ぐ))が鎮座した。(秦氏は、秦の始皇帝の子孫であり、長らく朝鮮にとどまっていたが、応神天皇の時迎えられて日本に集団移住してきたといわれている。)



稲荷神社では、2月(新暦・旧暦)最初の午の日を初午とし「初午祭」が行われます。
これは伏見稲荷神社の祭神が降りたのが和銅4年(711年)2月の初午だったからと言われています。
行灯に地口とそれに合わせた絵を描いた「地口行灯」を街頭に飾ることもあるようです。

稲荷と切っても切れないのが、狐です。
狐は稲荷神の使いとされており、稲荷神は稲を背負った農民の姿で描かれているものが多いのですが、その場合でも必ずといって良いほど狐が共に描かれています。
なぜ狐が稲荷神の使いとされるようになったのか、はっきりとした事はわかっていません。
稲荷神の別名である「御食津神」に「三狐神」という字を当てたためとも言われています。

また稲荷神=狐そのものとする信仰や、狐を田の神と考える地域も広範囲にわたっています。
春に山の神が里へ下りて田の神となり、収穫の終わる秋には山へと帰っていくという「山の神信仰」と、里へ現れる狐の神秘的な姿が重なって作り上げられたイメージなのかも。

全国に「狐塚」という地名が多く残っていますが、これは田の近くに塚を作って田の神の使いである狐を祀ったなごり。
後にその場所に稲荷を勧進したため稲荷信仰はいっそう全国に広まったものと考えられます。

中性から近世にかけては商業の神や福をもたらす神へと変化して庶民の間で爆発的な流行を見るようになります。
ちょっとした金持ちの家や出世を願う武家などでは屋敷神として「お稲荷さん」を設けるようになり、江戸時代にはどこにでもある物として「伊勢屋、稲荷に犬の糞」などと言われるほどでした。
現在でも会社の敷地内やデパートの屋上などに祠を設けているところがあります。

仏教の荼枳尼天と習合したことも稲荷信仰の拡大に拍車をかけました。
荼枳尼天とはインドのダキーニーという女神。
本来は生産の女神であったものが、仏教やヒンドゥー教に取り入れられるにしたがって人肉を喰らう愛欲の神という不名誉な性格付けがなされてしまいます。

この神が日本に伝わるとどちらも「農穣の神」であるという一致から稲荷神と結びつき、同時に「愛欲の女神」という部分が狐のイメージと重なったものか、狐に乗った姿で描かれるようになります。
愛知県豊川にある豊川稲荷は、この荼枳尼天を祀った神社として知られいます。


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