塗り絵の歴史とは、塗り絵はどうやって流行していったか

塗り絵の紙と色鉛筆の画像

塗り絵がいつ頃からあるのかという問いに対しては、「おもちゃ博物館」の中に下記のように書かれています。

「江戸時代の木版刷りの本の中に、色のない挿絵にいたずら書きで輪郭にそって彩色したものを時々見かけることがある。
この中には大人がしたのではないかと考えられる上手なものから、明らかに子供と考えられる稚拙なものまでいろいろあるが、大部分、子度のいたずらと考えられるものが多い。
本物のぬり絵ではないが、輪郭にそっていろを塗った点では塗り絵遊びのルーツともいってよいのではないか」

本物のぬりえではありませんが、塗り絵の源は、江戸時代の木版刷りの本の挿絵ということになります。

「おもちゃ博物館」では、塗り絵のその後の流行までの経緯について下記のように説明しています。

「明治時代になると、学校教育として図画の絵手本に色を塗ることが行われ、明治後期には、ハガキに絵が描かれていて、それに色を塗って送ると、賞金や賞品がもらえる事が流行し、多くの子供達がこれに挑戦し、この事が塗り絵の流行に拍車をかけた。
大正時代になると塗り絵帳も現れ、以後ぬりえは、女の子の遊びの代表的なものになった。」

これらのことから塗り絵が明確に表に現れたのは明治時代のことと思われます。
それまでは色のない挿絵に彩色しているのが江戸時代の木版刷本の中にみられる程度で、江戸時代には塗り絵というものが存在していなかったといえます。


そして明治時代、西欧の列強諸国に追いつく多め明治5年学校制度がつくられました。
その際に従来の「読み、書き、そろばん」の勉強から西欧型の学びが取りいれられることになりました。
図画教育もその中に取り入れられ、音楽や体操もその一環として始まったものです。

図画の学び方は、臨画と言われました。
中村文庫のHPには下記のように書かれています。

「日本で初めての図工の教科書の『西画指南』には、『自由に描くためには手がきちんとうごかなければいけない』とあり、『そのためには手本を臨みうつす練習が必要だ』とあります。
これが『臨画』つまり手本の絵を臨みうつすという考え方の元になりました。」

「はじめのころの図画は形を線であらわす仕方を教えていました。
いろいろな線のお手本を見ながら練習をします。
それができるようになったら次は花や家など身のまわりにあるもののお手本を臨画します。
日本には『かたちを覚えて基本を知る』という考え方があります。
これは『自分なりに描くためには、正しい描きかたを覚えなさい』ということを言っています。
その正しい書き方が『お手本』なのです。
いまの自由に描くこととは考え方がちがいますね」


図画の用具の面からの塗り絵では、「近代日本美術教育の研究」に下記のように書かれています。

「明治時代後期から低学年の図画教育に色彩をつけるのに主に、色鉛筆が使われるようになった。
ところが当時の色鉛筆は質が悪く、すぐに芯が折れた。
そのため教師や児童は授業の大部分を鉛筆削りについやさざるを得なかったとも言われる。
そこへ大正6年頃からクレヨンが輸入され始め、さらに大正10年に国産クレヨンが登場し、たちまち流行した。
自由画とクレヨンがセットになった形でさらに広まることになった。

大正期の子供向けの図画関係出版に、中沢弘光・丹羽礼介『クレヨンスケッチ画手本』、綱島亀吉『自由画クレイヨン習画帖』、加藤曾一『参考図画帖』があり、中沢・丹羽・綱島・加藤のものは参考手本帖や塗り絵帖である。
自由運動をへているためか、花鳥風月的な題材を影にひそめ、近代的な感覚の題材、例えば静物、風景、人物といったものになっている。
これらにおける主たる描材がクレヨンになっていることにも注目したい。
クレヨンは瞬く間に児童の描材の主役になったのであった」

上記の話に「塗り絵帖」という言葉が出てきますが、明治の後半には図画教育の中で色をつけることが始まっていますので、絵に色を塗る塗り絵が出てきても不思議ではありません。
さらにその後子供たちに扱いやすい画材のクレヨンが出てきたことにより、塗り絵の普及に一役かったことは想像に難くありません。


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